母の言葉には、翻弄され続けてきたように思います。
私を見て「きれいね」と言う半分は、身にしみついている社交辞令。
母は、人と接するための言葉を操り続けていたと思うのです。「嘘ではなくても正直ではない。」本心をずらして表現している言葉を、そのまま真に受けてはいけないと学ぶまで、痛い思いもしました。
自己制御の縛りが緩んでくると、機嫌のいいときには、だれかれかまわず自慢話を始めました。かなわなかった夢も、いつの間にか華やかな手柄話になっていました。
そんな母が、「さみしい」と言いました。率直な気持ちを表現した言葉が、わたしには新鮮でした。