
母の言葉には、翻弄され続けてきたように思います。
私を見て「きれいね」と言う半分は、身にしみついている社交辞令。
母は、人と接するための言葉を操り続けていたと思うのです。「嘘ではなくても正直ではない。」本心をずらして表現している言葉を、そのまま真に受けてはいけないと学ぶまで、痛い思いもしました。
自己制御の縛りが緩んでくると、機嫌のいいときには、だれかれかまわず自慢話を始めました。かなわなかった夢も、いつの間にか華やかな手柄話になっていました。
そんな母が、「さみしい」と言いました。率直な気持ちを表現した言葉が、わたしには新鮮でした。
薄化粧

昨日は、母に会いに行って「面倒くさくて、くたびれた」と思いました。
ちょっと寒いけど、梅を観にいきました。
「今日は誰もいなかった」と言うので、「みんなで一緒にタオルたたみをしていて、全部キレイにたたんでから来たでしょ。」「おお、そうじゃった。」と言うのも束の間、また、「今日は誰もいなかった」と繰り返し続けます。
どこかで引っかかっているように繰り返す言葉が「誰もいなかった」のこともあれば、「ご飯を食べていない」とか、「何歳になったのか」の日もあります。こんなときは「そうだった」と答えていても、何も耳に届いていないのです。
「梅が見ごろね」と言っても、視線を追うと梅の木は眼に入っていません。視野が開けて、なだらかな梅林が見渡せるところでは「ほーたるのやどは・・・」と歌い始めました。「夏の歌ね。」風は冷たく、ちっとも夏らしくないのに、「いいきもちだから。」
会話は、ちっともかみ合いませんでした。
でも、日ごろはUVカットのクリームだけですが、母に会いに行くときには、髪をシニョンに結いなおし、薄く化粧もします。
気紛れではあっても、ときに、しげしげと私の顔を見て「きれいね」なんて言うのは、母だけですから。
あしかけ17年

編みかけのまま眠らせていたセーターを完成させました。
80%シルクの糸を10玉買ってあったので、セーターを編んだ残りで、べつ衿とマフラーが編めました。
たっぷりのオフタートル、流行のマフラースタイル、涼しく衿なし、と3通りに楽しむことにします。
さえずるヒバリ

空でさえずるヒバリを頑張って撮った写真を見て、思い出しました。
次男の小学一年生の初めての参観日は「こくご」でした。
教科書には、春をえがく文と、ヒバリの絵が載っていました。先生からは、絵を読み解く質問。お母さんヒバリと赤ちゃんヒバリの答えが出て、手を上げる子がいなくなったのに、次男はまだ一人手を挙げ続けていました。
空の小さい点を指して「お父さんヒバリは、遠くの空から見ている。」
ほのぼのとした家族像、とちょっとうれしく思ったのは若かったなぁ。
草原に踏み込んで遊びほうけていた次男、もしもヒバリの巣を見つけたら「宝物」だったことでしょう。家族観とは無関係、「見守っている」と解釈したかったかもしれないけれど、ただ「遠くの空にいる」と言っていたのかもしれません。
空のヒバリがのども裂けよとさえずるのは、自己主張。現に、このヒバリだって、声を限りにさえずっていたから、カメラに収まり、インターネットにデビューしている。
メジロの婚活

今朝のメジロは、ハイテンション。
小さいからだから、途切れる間もなく、精一杯声を張り上げています。
春。エネルギー、生命の継承。
睦まじいペアになって、いっしょに山茶花にきてね。
そういえば、スズメも大きい群になって竹藪で騒いでいました。ムクドリも群の中で婚活中?
愛しくおもうこと

アールの写真の中で、最近ほほえましく思うのが、この写真です。
一生懸命こっちにくるけど、「前が見えないでしょ。」
子犬の頃だけでなく、大きくなっても無頓着にワッサカワッサカ進むアールでした。散歩のときには、汚いもの危ないものを踏みつけないように足元に気を配り、前後からくる車、すれ違う人も気にかけていました。
犬と暮らすことを懐かしく思っても、もう、アールのようには付き合えないと思うのです。
ランチョンマット

給食米のカドミューム汚染の新聞記事がありました。汚染された土壌を浄化するのはほんとうに大変なことでしょう。環境汚染は恐ろしいこととつくづく思います。
「カドミュームはなぜ毒なのか」という話から、元素の周期律表の話になり、出てきたのが、このランチョンマット(ランチマット?)です。
むかし、ペン字を書くとき、普通の下敷きよりも大きいのが便利で使っていたものです。
いろいろなデザインのものがある中、どうしてこんなマニアックなデザインにしたのか、まさか、かつて化学を学んだことが懐かしかったわけでもなかろうに、よほど選ぶに困ったとみえます。
でも、ちょっと目に触れるところにおいておくことにします。
もしかして、おチビさんたちが興味を持つかもしれません。「教育おババ」かな。
シクラメンの色

冬の間、地下街の階段やショーケースを彩っていたシクラメンは、桜草やチューリップに置き換えられています。
すりガラス越しの淡い光が合うのか、家のシクラメンは、まだまだ元気です。
お店で選んだのは、オレンジがかった可愛いピンク色の花だったのですが、家で開く花は少しずつ白っぽくなってきました。
「出荷する前に色水を吸わせるのでは。」なんて、邪推だと思いたいのですが、去年も、花びらの先がピンク色だったはずなのに、白いシクラメンになってしまいました。
変わった色を選ばないで、シクラメンらしい色にしておけば春まで色が変わらないのかしら。
母の誕生日

今日は、母の90歳の誕生日です。
毎年、誕生日には母に会いに来ていた兄も、この時期、インフルエンザやノロウィルスの感染予防のため面会謝絶になったことが続いて、期日をずらして会いに来るようになりました。
でも、やっぱり誕生日なのです。
母にとってうれしいこと、息子に会うことを措いたら、何なのでしょう。
認知症と診断されたのは、もう何年も前なのに、「最近なんかボケてきた。」「なんだか歳とってきた」と気にかけたりする母です。気に入った写真はポケットに入れてクシャクシャになっているかとおもうと、家族と写した写真も、自分の顔だけ千切りとっています。
施設に入所した母は、家にいた頃よりずっと落ち着いて、体調も安定しています。「年老いた親を施設に入れる」ことを後ろめたく感じ、それが最良のことだったと思うとは、正々堂々とは言えない風潮を感じてしまいます。
でも、「母は私の傍でボケたくなかったのだ」と思うのです。それは、私への思いやりでもあり、母の誇りでもあるにちがいないと思うのです。
公園の陽だまりで、温かいお茶を飲みながら、幼い頃聞いた昔話を繰り返すと涙を流して笑う母。今日は雨なので、散歩はできないけれど、お気に入りのレディグレイを一緒に飲んできます。
観梅

節分の日は、昼を過ぎても気温が上がらなかったので、観梅は一週間伸ばしました。
やっと、2~3分咲き、今日にしてよかった。
携帯を新しくして、万歩計が復活したので「5000歩になるまで進もう」と歩き始めました。
センダンソウの実がアールにくっつかないか心配したり、立ち止まるアールを待つこともありません。アールを連れてくるときは車を使ったのですが、公園の奥まで歩いても、まだ4000歩でした。
気ままに梅園を巡って出口で5200歩、すこし遠回りをして帰ってきても、一万歩には届きませんでした。
残念だったのは、冠毛をちょこんと載せたヒバリをカメラに収めたかったのに、間に合わなかったことと、枯れ草の空き地でチッチッと澄んだ声でさえずる小鳥の姿を、どうしても見つけられなかったことです。



