電線にずらっと並んで、騒がしいほどに啼き交わしているムクドリ、ヒッチコックの「鳥」を連想してしまいます。
芯に木の実の種の入っている「雨」は、パラパラと音を立てて降り、道路も汚します。
パッと傘を広げると、ムクドリは一斉に飛び立ちました。方向を変えて、もう一度パッ。ちょっと楽しくなりました。
メジロやカワラヒワは可愛くて好き。鳴き声を聞き、姿を見ると、なんとなく幸せ。
でも、ムクドリやヒヨドリは好きになれない。
メジロに「おはよう」と言ったって、ヒヨドリに「お行儀悪いね」と言ったって、さっと逃げていくのは同じですもの。
トリにはエコヒイキしたっていいよね。
野鳥のおみやげ
メジロの声に、そっとカーテンを開け「メジロの目って、ほんとに真白く縁取られている」と思ったら、目を合わせたメジロは、すぐ逃げてしまいました。
山茶花を花ごとムシャムシャ食べるヒヨドリたち、たくさんの鳥たちの置きみやげが、実生の木です。
育っているナンテンとセンリョウは、10本以上ありそうです。イタズラに千両と南天を鉢に移して、葉牡丹、ミニシクラメン、小菊などを添えてお正月用の鉢植えを作ってみました。バランスが取れなくて、出来映えは今ひとつ。
赤い実のセンリョウ、ナンテン、黒い実で枝がたわむほどのモチノキ、この辺りに多く自生しています。実のなる木が多いから、野鳥がたくさん訪れるのでしょうし、野鳥が多いから、また、実生の木が育つのでしょう。
山茶花に元気がなかった頃、間に生えたモチノキを「生垣の隙間を埋めるかな」と残しておいたら、どんどん育って手に負えぬほど大きくなってしまいました。 抜くこともできず、刈り込んでこんな姿にしてしまいました。
実生の苗木を抜くのは心も痛むのですが、周囲を雑木林にしてしまってもかまわないほど広くはないので、幼いうちに抜いています。
本を買う
誕生日のお祝いに、本をプレゼントしようと思いました。
子どもの本に疎くなっているので、新聞の書評を読んで書名をメモしていきました。棚にびっしり並んでいる本に、私が選んできた本は見つかりませんでした。親切に手伝ってくださった店員さんも「朝のうちに、どなたかがお求めになったのかもしれません」とのこと。
探しているうちに、贈りたいと思う本をどの棚で探せばいいのか分かってきました。
いわゆる「子ども向けの本」とはちょっと雰囲気の違う『ファーブル昆虫記』をプレゼントに選びました。8巻全部そろえてプレゼントできたらいいのですが、私に持ち帰れる重さ(?)にとどめ、気に入ったら追加してもらうように言葉を添えました。
なんだか私も読みたくなる雰囲気の『ファーブル昆虫記』でした。
圧倒されそうなほどの量の本ですが、手にとって見ると、森の倒木とキノコの本とか、生存の危機にあるシロクマを丁寧に描いた本とか、地球の多様な生命をいつくしむ本がいっぱいでした。
ふっと、今まで買ってきた本には偏りがあったと思いました。
編み物の本は、価格を気にせず「欲しい」と思ったら迷わず購入していました。
探偵小説は、移動中の乗り物の中で手放せないものとして、抵抗なく買っていました。
「これからは、自分のための本を集め始めてたいな」と思います。
花を食べていたオスカー
ユリの葉が、さらにまた食べられています。
かなりの量を一度に食べていくのは、どんな生き物なのでしょう。昨夜、おねだりするような猫の大きな声が聞こえていました。猫がユリの葉を食べる?
そういえば、オスカーは庭の花を食べていました。
オスカーは、アールが生まれる4ヵ月半前に、4歳で病死したアメリカン・コッカー・スパニエルです。
コッカースパニエルにしては、おっとり系だったのでしょうが、アールのように受身ではなく、アクティブで遊び好きでした。手が空いていると見ると、おもちゃを持ってきて気が済むまで、相手することをせがまれました。
花を食べるのも、ちょっとしたいたずら気分だったのか、パクッとくわえて、チラッと人の顔を見て走り回っていました。
「ボクは、ママの寵児」と自負しているような子でした。
ささえてくださる方々
母に会いにいって、いつも感心するのは、施設職員の気持ちのいい応対です。
身体の不自由な入所者も多いので、毎日の仕事は重労働だろうと思います。でも、私が帰
るときには「ありがとうございました」とさわやかに挨拶して送ってくれます。
今、母を担当してくれているのは、ちひろさん。しっとりと落ち着いていて、母の健康状態や言動を細やかに見ていてくださいます。
今はもう、この施設を去られていますが、母を施設にお願いするに当たって、大きな力をいただいた方がいました。
デイ・ケアからの長いお付き合いで、一時期、「きつい言葉で、周囲の人を泣かせてしまうので、ここでは世話できません」と言われたこともありました。他の施設を回ってみても、彼女ほど母の気性をきちんと把握してくださる方はありませんでした。
入所した当初、「こんな方もいらっしゃるのか」と思うほど穏やな方と同室にしてくださったのも、彼女の配慮だったに違いないと、今も思っています。まるで魔法のように母は落ち着き、大切な友だちをいただきました。
ユリの芽
昨日まで、無傷で伸びていたユリなのに、こんなに葉が痛んでいます。
秋に6球植えた球根ですが、しっかり伸びているのはこの一つだけで、もう一つは芽を出したのにちっとも伸びず、残りの4球は跡形もありません。
球根を植えた辺りが掘られている跡をなんども見つけました。
ユリネの味をしめたネズミの仕業かと、「特別のご馳走」を仕掛けたのに、それはちっとも減っていません。
根や芽だけでなく、葉も食べたのは、やっぱりネズミなのでしょうか。
アールがいなくなったことは、こんな被害にもつながっていました。
ただ、いてくれることがとても大きいことでした。
歩いてます。
さあ、万歩計をかばんに入れて、出発。
今日は、北に向かいます。
飛びたたったイソシギについて、用水にそって曲がりました。水中には大きな魚、コガモもいました。水の流れは自然を感じさせてくれます。
畑の中の用水に沿った道は、柔らかい草の感触です。どこまで行っても、元気だったアールと一緒に歩いたことのある道です。
大きなシラサギ、ゴイサギ、ツグミ、ヒヨドリ、ケリ、シメ、ジョウビタキ、メジロ、もちろんハトやスズメもたくさんにました。なにやら長いものをくわえていたカラスは、葉を落とした木の枝の間に巣を作っているところでした。
午前中の方がトリが多いのか、それとも、さらに一歩春に近づいているのでしょうか。
『沈黙の春』じゃないよね、と言いたいほど、たくさんのトリに会えました。
朝寝
ベットの中で聞きなれない小鳥の声を聞きました。障子を開けたら逃げてしまうでしょう。
シジュウカラかしら・・・
コツコツと聞こえるのは窓の下のオリーブにコゲラが来ているのかも・・・
明け方まで寝付けなかったので、ベットのぬくもりから離れがたく、見えないのをいいことに、いろいろ想像していました。
間違いをきちんと指摘して諭すのが苦手です。
唖然とした言動にも、言葉をのんで庇ってきてしまったと思います。
十年以上、厳しさを忘れて、甘やかし続けていたのでした。
初めての苦言に、過剰に反応している。
しばらく静観するかな・・・ここでも黙っていないで、的外れな反論をいさめなくてはいけないのかな。
母の言葉
母の言葉には、翻弄され続けてきたように思います。
私を見て「きれいね」と言う半分は、身にしみついている社交辞令。
母は、人と接するための言葉を操り続けていたと思うのです。「嘘ではなくても正直ではない。」本心をずらして表現している言葉を、そのまま真に受けてはいけないと学ぶまで、痛い思いもしました。
自己制御の縛りが緩んでくると、機嫌のいいときには、だれかれかまわず自慢話を始めました。かなわなかった夢も、いつの間にか華やかな手柄話になっていました。
そんな母が、「さみしい」と言いました。率直な気持ちを表現した言葉が、わたしには新鮮でした。
薄化粧
昨日は、母に会いに行って「面倒くさくて、くたびれた」と思いました。
ちょっと寒いけど、梅を観にいきました。
「今日は誰もいなかった」と言うので、「みんなで一緒にタオルたたみをしていて、全部キレイにたたんでから来たでしょ。」「おお、そうじゃった。」と言うのも束の間、また、「今日は誰もいなかった」と繰り返し続けます。
どこかで引っかかっているように繰り返す言葉が「誰もいなかった」のこともあれば、「ご飯を食べていない」とか、「何歳になったのか」の日もあります。こんなときは「そうだった」と答えていても、何も耳に届いていないのです。
「梅が見ごろね」と言っても、視線を追うと梅の木は眼に入っていません。視野が開けて、なだらかな梅林が見渡せるところでは「ほーたるのやどは・・・」と歌い始めました。「夏の歌ね。」風は冷たく、ちっとも夏らしくないのに、「いいきもちだから。」
会話は、ちっともかみ合いませんでした。
でも、日ごろはUVカットのクリームだけですが、母に会いに行くときには、髪をシニョンに結いなおし、薄く化粧もします。
気紛れではあっても、ときに、しげしげと私の顔を見て「きれいね」なんて言うのは、母だけですから。