

芝草の間に生えていました。目を凝らさないと分からないほどの、小さい花です。
「オオイヌノフグリの仲間ですが、花はずっと小さく、葉やがくなどに埋もれるように咲くので目立ちません。茎がまっすぐ上に伸びるため、『タチ(立)』の名があります。高さは10~30cm、道ばたや畑などに生えるヨーロッパ原産の帰化植物。」と図鑑に解説されています。高さは10cmに満たないのですが、その他の説明には当てはまりそうです。
長い間、高層住宅に住んでいた友人が、庭のある家に移った春には、「草の花が可愛いから、抜かずに眺めている」と言っていました。でも、今では、生い茂る草の勢いと、茂った草に潜む生き物とに閉口しているようです。
降っても照っても伸びる雑草、抜くのは一仕事です。雨上がりで土が柔らかいうちに、大きくなってかさばる前に・・・・・・
サンシュユ

木に付けられた名札を見て、「これが、サンシュユの木の花ですって」というと、「庭のサンシュユの~木~ぃい・・・」と、母の十八番の歌が始まりました。これって、黒田節?黒田節は「酒は飲め飲め、飲むならば・・・」ですね。聞いている方も混乱気味です。
歌が出るのは、気持ちがいいからでしょう。
この花が、秋には真っ赤な実になります。つやつやした、キレイな実ですが、種が硬くて大きいそうです。

アケビ
足元ばかりでなく、目を上げたところに、見つけた花はアケビでした。
アケビの実は、秋の山の風景にとけこみ、冬眠前の熊さんのごちそうとして、むかしからお話の中で親しんでいました。
これが、そのアケビの花だったと、はじめて知りました。

近くに、よく似た感じなのに、色の違う花がありました。「葉が3枚に分かれていて、葉のふちに大きなギザギザがある」という特長ははっきり見えないのですが、「花は、アケビと異なり濃紫色」なので、こちらはミツバアケビなのだと思います。

ヒメオドリコソウ
姫踊り子草、道端の草なのに、こんなに華やいだ名がついているとは思いませんでした。
同じシソ科のホトケノザと似ていますが、ホトケノザよりも地味です。
「花の形を、笠をかぶった踊り子に見立てた命名」という、在来種のオドリコソウよりも花が小さいので「ヒメ(小さいという意)」とつけたという帰化植物だそうです。

オオイヌノフグリ
子どもの頃、花束にしようと摘むと、じきに花びらが落ちてしまうので、がっかりしたからか、名前とその意味を聞いて敬遠したくなってしまったのか、道端の花として見捨ててしまっていたような気がします。
空色の花が、春の日差しに光って群生していました。シンプルな花もこんなに可愛いのに、もう少しいい名をつけてもらいたかったのではないかしら。
身近で親しいからこそ、こんな名がついたのかもしれませんね。

ムラサキサギゴケ

この数年、裏口や物置の影に広がるようになった野草です。
すみの方の、ごみごみしたところを隠してくれるのですが、どこまでも伸びてくるので、ときには抜きます。
私には目新しかったのですが、「田のあぜなど、湿ったところによく見られる」ようです。
「地をはう茎を四方に伸ばして広がる姿をコケになぞらえて、この名になった」そうです。「ゴマノハグサ科・多年草」と書かれていました。
よく似た花の「トキワハゼ」は、一年草で、乾いたところが好みらしく、芝草の間に咲いているのをよく見ます。

キュウリグサ


庭のすみに生えるようになった、とても小さい花です。
忘れな草を植えた後、翌年も咲かないかな、と心待ちにしていたのに、そのまま消えてしまった後だったので、「忘れな草が小さく変身したの?」言いたくなるような風情なのですが、2mmもないほどの小さい花です。
野草の本に、「葉をもむと、キュウリに似た香りがします」と書いてあります。ちょっとつまんだくらいでは、よく分からなかったのですが、しっかりもみつぶしたら、ちゃんとキュウリの香りがしました。
名前が分かると、ちょっとお近づきになった気分です。
シャガ

春の野の花は、気づかないほど小さくやさしく咲いています。よく見ると可愛い花なのに、名前を知らないものがとても多いです。
シャガは、子どもの頃から名前を知っている花です。
通学路のひんやりした道端にも咲いていた、なじみぶかい花です。
もう少し暖かい頃、咲いていたような気がするのですが、水辺の木陰で見つけました。

クヌギの芽

春というと桜で、桜が咲くと花見をしなくてはならないような気分になってしまうのはなぜかな、と思いながらも、桜を背景にアールの写真を撮った公園に行きました。
肌寒くて人も少ないせいか、若い桜のアーチはきれいなのに、しーんと静かでした。
水辺の柳の新芽は風にゆれていました。
クヌギも芽吹きのときでした。細くたれている、淡い黄色は花芽なのでしょうか。クヌギの実は、大きいのにドングリよりもずっと早く落ちるのは、きっと、ドングリよりの早く花を咲かせるからなのでしょうね。
菜の花

菜の花の黄色は淡く、景色は春色にそまります。
母にとっては、桜の枝を見上げるよりも、菜の花の方が視野に入りやすいようです。
「春らしい色ね。」などと話していると、「なのはーなばたけぇに・・・・・・」と歌い始めました。私の記憶とは、すこし外れるところもあったのですが、2番まで歌いとおしました。

ときどき、「母の世界」はどんななのだろう、と思います。
若かった頃のことの方がより明らかな記憶になっているのはたしかですが、「若い頃の記憶は確か」とも言えません。印象が強かったことが、それぞれ断片になっていて、それを繋ぐ流れは途切れているように見えます。
瞬間瞬間の感覚に狂いはないのですが、いい終わった言葉も瞬時に消え去ってしまうので、訳が分からなくなってしまうのではないかと思います。
最近、母が「だれもいなかった」と繰り返して言うのは、「とても仲良くしてくださった友だちがいなくなった」ということを言いたかったのだと、やっと分かりました。母にとって「いてほしい」のは、一人の友だちだけで、名前も思い出せないその方がいらっしゃらないのは「だれもいない」ことなのでしょう。


